GIDの話から、いろいろ

2018.06.07 thr

 

 SNSで、全く存じ上げない方から「お子さんはGIDですか?」との突然のダイレクトメッセージを頂いたことがあります。


 その方と私は全く面識がないし、

 私がそのような内容の話題を取り上げたこともないので、あくまで推測ですが、

その方が子供の写真を見てそう判断されたのかな?と思っています。


(言わなくてもわかるかと思いますが、だとしたらこの方の頭の中ではストーリー爆走中だしかなり境界線越えしてますよね)


ご丁寧にご自身のGID治療に対する見識と、治療の必要性を説いておられ、「当事者の大半が治療(二次成長抑制療法)が遅れると後悔する」と書いてらっしゃいました・・・。

 

 今回は境界線の話をしたいわけではないので、さらっとだけ触れますが・・・

 

 そもそもこのメッセージに、「はい」とか「いいえ」とか答える義務はありません。

 

今すぐブロックするもよし、

「そもそもまずお前は誰なんだ」と問い返してもよいですし(笑)  対応はまったく人それぞれでしょう。

 


これ、

私なりの例えで言わせてもらえば、


「今日のパンツは白ですか?」


「今すぐピンクのパンツにしないと後悔しますよ」と、突然見ず知らずの方にお節介なアドバイス?をしているようなものです(笑)

 

そしてこの「今日のパンツ学」有識者のファーストコンタクトは、私は人として決して真似したくない、最悪のコミュニケーションスキルだなーと思います。


 (でも、直観でお相手の長年の痛みや良心が見える場合は、名を名乗れゴルァと絡むこともなく・・・ただただ画面に向かって微笑みを返すという…軽く抑圧しながら話を先に進めますね♪( ´▽`))


SNSにありがちかな〜と思いますが、

自分本位な効率性、即効性等を重視する裏で、人と人とのコミュニケーションの根底にあるはずの大事なものが失われつつあるのではないか、と危惧する瞬間でもありました。


 

まぁ、今回はその話ではなく・・・

書きたいことの本筋から逸れてしまうのでもとに戻します。

 

 

GIDとはGendre Identity Disorderの頭文字で、日本では「性同一性障害」と訳されている方がまだ多いかもしれません。

自分の自認する性と身体が不一致であって、そこに生きづらさを感じている人たちのことです。

DSMでは「性的違和」と診断名が新しくなっていました。改定された意図は、当事者が自認する性と身体の不一致は障害ではないとはっきり明示することにあったと思われます。しかしまぁ、DSMに記載されているのですから精神疾患ということにはなっていますが…そもそも体や心に何か異常がある、というわけではありません

    もちろん、生き辛さやほかの病からの性別違和もあって、本当にひとそれぞれです。

 

法律も制定され、社会的にも性別を移行することが認められたりという動きがでてはいるものの、

やはり取り組みとして、結局それらは医学の世界の範疇を抜けきれていない気がしてなりません。


 

そもそも、自分の自認している性に合うよう、身体を変えたいと望むことを「障害」と判断していたこと自体に違和感を感じます。


 

病理化し、障害と名の付く枠組みの中で当事者の方々を捉えていくということは、「性同一性障害」という診断結果の大前提から当事者を逃れられなくするのではないでしょうか。「治療すべき」、「治すべき価値観を生きている患者」というラベリングをすることにほかなりません。

 

 

今、もしかしたら私が書いている内容が全く通じてないのではないか・・・という一抹の不安がよぎりましたが(笑)臆せず続けます。

 

 

そもそも性の自認は社会的や心理的な要因が大きく、また当事者と長年対話している方のお話だと、変わったり揺らいだり流動性があるのもまた事実なんですね。どうしても治療となると「男」か「女」かの二者択一が迫られてくる。ホルモン治療だと、どちらか選んだ性別にそって今後の人生生きていけるかという判断も大事になってくるわけです。そうして治療方針が決定される。治療をするには「二者択一」で「永続的なアイデンティティー」が押し付けられるわけです。

また関わってくるお医者さんの「男らしさ」「女らしさ」の観念は治療を受ける側に大きく影響するかもしれません。当事者も過剰な「らしさ」を装うことによって、自らの性の自認の正当性をよりアピールしようとする可能性も考えられます。


 

要は、「障害」や「永続的な二者択一」の世界観のなかだけで当事者を捉えていくということに、わたしは疑問を持っています。


 

 性の多様性、アイデンティティの自由や流動性、それを「障害」や「病気」とは呼びません。


 当事者の苦しみを「男」か「女」かの特定のアイデンティティに繋ぎ留め解消することは、当事者の根本的な苦しみの解決にはならないのではないでしょうか。


 もっと個々の性の在り方を全体的に捉え、まずは徹底的にその方が今感じているリアリティーに沿ってゆっくりとカウンセリングを進めていくことが必要なのではないかと思うのです。(自認する性と体の不一致を病理化することが問題なのです。そこから生まれる苦しみはいわゆる「治療」の対象となり、当然、希望する方が適切な治療や処置を受けられるのが大前提であります。)

 

 わたしは、この苦しみの部分において、例えばRFTやマトリックス・リインプリンティング、EFTなどのセラピーは非常に有効であると思っています。これらは「治療」ではなく、ご自身と深く向き合っていく方法です。自分が「これぞわたしのリアリティ」と思っていたものが解体されていく。そうして浮かび上がってきたものこそが問題の本質であるのです。

 

* * * * * * * * *

 

書きたいことがたくさんあって書ききれないという現象が起きています(笑)


 

そして、もうひとつ。

これは私のなかでいつも起こっていることの一つで、

いわゆるマジョリティーとマイノリティーの二つの間の圧倒的な不均衡…これを解消していきたいという強い思いがあるんですね。

これは私の中で、力や数の論理がまるで真実であるかのように感じられているからであって、これが本当に感じたくない不快感だからこそ、不均衡を感じなくて済む、多様性や差異を認め合える社会を築こうなど、自分なりの理想を掲げるのだと思っています。

ここは本当に私の見どころであり、自己ワークで何度も取り組むテーマの一つでもあります。

 

 

 ですからセクシャルマイノリティに関する出来事も、例え自分が当事者でなくても、自分の痛みが反応している部分は大いにあるのだと思います。


もちろん、自分の問題と切り離すのは大前提なのですが、痛みを知っている私だからこそ、見えてくるものがあります。そして、「不均衡」さに感じていた重くて硬いエネルギーがほどけて、純粋に温かさの中で人と人とがつながれることを望んでいるイデアを自分の中に体感したとき、私を動かしていたのはこのエネルギーだったんだ…と心が温かくなるのです。

 そして、本当の意味で寄り添って、歩むことができるのだと思っています。